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名前 武地 志津
住所 サンパウロ州 サンパウロ市

「ブラジルの少年」

 パン屋の角を曲がると、丁度停留所にメトロ行きのバスが停まっていて然も

発車寸前である。運転手に素早く手を上げて合図しながら小走りになる。

 乗車口に着くと、把手に掴まり昇り口に片足を掛けた侭の恰好で、十歳位の

伯人の少年が待って呉れて居た。

「どうぞ」と言う仕草をする少年に礼を言うのもそこそこに急ぎ乗り込むと、

続いて彼も乗った。ほっとして振り返り改めて見ると色白のまだあどけなさを

残した少年である。「オブリガーダ」(ありがとう)と言う私に、心持ちはに

かんだ表情でこっくりをして応えてくれた。

 ブラジルのお国柄で、女性を大事に扱うのは何時も目の辺りにしているし、

またいままでにも経験していて決して珍しい事ではない。けれども、この少年

はまだまだ遊び盛りの年頃なのである。

 日常の生活環境から自然に身に付いてゆくものであろうか。それとも日頃か

ら人を思いやる優しい心の持ち主なのであろうか。

 兎も角、その育ちのよさそうな面差しにふと、少年の親なる人の姿が重なっ

て思い浮かぶ心地さえした。

 ある日、街からの帰途バスの中で学校帰りらしい男の子と隣席に乗り合わせ

た。八、九歳位の浅黒い子は、教材を入れた重そうな鞄を膝に置き、乗車まえ

に買ったのであろうピーナッツの細長くて小さな袋を手にしている。

 窓際でじっと外を眺めていた子は、不意に振り向いて時間を聞いて来た。私

は彼に頷いて左腕を伸ばし、黙って時計を見せた。

 覗き込むように時計の針を見て少年は「オブリガード」(ありがとう)と言

った。それに「ナーダ」(いいえ)と頷き返しながら私は、受け取って来たば

かりの俳誌を取り出した。終点で降りるまで一時間近くはかかるのである。

 頁を繰るとまず巻頭句が目に入る。矢張りさすがだと思い「ふーっ」と溜め

息が出る。二、三度読み返した揚句、自分には真剣さが足らないのかもと思い

一方では矢張り才能の違いなのだと悲観的になる。果ては、余りにあれこれと

頭を突っ込みすぎるから何もかも中途半端になる原因なのだと勝手な自己批判

をする。

 俳誌に目を落とした侭、思索に耽る私の様子に、ちらちらと目をくれている

隣席の子の視線を意識したとき、遠慮がちに左肘を突つかれた。紙面から目を

逸らし頭を上げると、無邪気な子の笑顔が黙って、開けたばかりのピーナッツ

の袋を私の目の前に差し出してくる。咄嗟に「ノン・オブリガーダ・コーメ・

ヴォッセ」(結構よ、あなたが食べなさい)と手を振る私に「ペーガ・ウン・

ポーコ」(少し取りなよ)となおもすすめる。「エントン」(じゃあ)と三粒

ほど指先に摘んで口に入れると、彼は満足そうににっこりして自分も食べはじ

めた。香ばしいピーナッツの匂いが鼻先に漂う。このような人懐っこさ、おお

らかさは矢張り先天的なブラジル人特有のものであり、日本の子供たちには到

底見られないのではないか?と思いつつ、美味そうに器用に口中に放り入れて

頬ばる子の浅黒く細いおとがいを、私は横から和やかな心持ちで、飽かずに眺

めていた。


随筆・俳句・短歌集 「松風」

武地 志津(静子) 著

Rua Dias de Toledo 309 apt91, Vila de Saude
CEP:04143-030, Sao paulo, SP