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名前 後藤 留吉
住所 サンパウロ州 カンピーナス市
生年月日 1908年7月14日

「雑草の如く生きて」

〜「雑草の如く生きて」抄より〜

 私は、1928年9月23日、20歳のとき神戸出港のハワイ丸でブラジルへ

移住した。鷹取工場で在職中に貯めた郵便貯金は四百円近くあった。政府の旅費

をあてにせず単身移民で二百三十円かの船賃を払っての移住である。荷物はござ

に包んだ布団と柳行李一つに手荷物という手軽なものだった。出港には母の姿が

岸壁にあった。その孤影が胸に迫ってきた。このまま母を置き去りにして行って

いいのかという後悔の念が激しい衝動であふれ出る涙とともにせり上げてきた。

 五十日の船旅を終えてサントスに上陸、呼び寄せ人である移民会社・海興の坂

本靖リベロン・プレート出張所長の指示でブラジル人経営のコーヒー耕地に入植

した。その後通訳助手、本通訳ののち農場部門、酒造部門から商事部門、銀行部

門と多くの部門があった三菱の岩崎家がつくったカンピーナス東山農場へ転職す

ることになった。1931年10月のことである。仕事は会計助手である。ソロ

バン、伝票整理、記帳を一日中するほどの仕事はない。だが来る日も来る日も事

務所に閉じこもっての生活は相当こたえた。資本金四千コントスの農場の、その

月の収支勘定のトータルは毎月決まって赤インクで記入した。毎月が赤字だった

のである。しかし草創期だったからほのぼのとした、なにか新鮮さがあった。

 1932年7月にサンパウロ護憲革命が起き、東山農場が戦場となったが10

月には戦争は終わった。農場職員に一人の負傷者もなかった。それどころかブラ

ジル人ののどかさだろうか、軍人さえ一人のけが人も出なかったのである。

 そんなある日、私の進むべき道が開けてきた。山本場長が36年4月、農場内

に居住する人たちを対象に食料雑貨店を農場経営でやるが、私に「店の経営を任

せるからやってほしい」と言われた。さっそくカンピーナス市内の日本人が経営

する食料雑貨店で研修を受けた。

 開店して二ヶ月後に綾子と結婚式をあげた。アメーバ赤痢が再発した時、療養

生活を送った。こんな時に十七歳の綾子と知り合った。彼女はその前年に東山農

場に来て一家で働いていた。愛が芽生えた二人は結婚を考えるようになったが、

綾子は一家の労働力として手放せないので、結婚に反対された。結局はしぶしぶ

許され、二人は二世を誓って充実した毎日を送った。農場直営の店は好成績で、

本部会計主任の家木さんがほめてくれた。山本農場長は「よく頑張ってくれた。

君が望むなら現在の農場直営から独立してもいいよ」と言ってくれた。私は農場

内で食料雑貨店を独立することに決め、1938年から今度の世界大戦を挟んで

13年間きりもりした。

 戦後四年目の1949年4月に東山農場の食料雑貨店を閉じて、カンピーナス

市街地に開店した。商売は順調に進んだ。新規開店三年目ぐらいからカンピーナ

ス市周辺に日本人が増え、親睦団体のカンピーナス日伯文化協会をつくろうでは

ないか、という機運が盛り上がってきた。初代会長は大野金次さんだった。三年

の任期が終わり、二代目会長を私に押しつけられた。まだ五十歳代の若輩でもあ

り、自分で適任だと思えないので強く辞退した。だが砂をかむ思いで承知せざる

を得なかった。在任中、懸案だった会館建設に尽力した。設計技師の無責任、金

銭に対するルーズさに振り回されて苦労した。

 そのころスーパーマーケットがぼつぼつ出来始め、人気が出ていて、食料雑貨

店は過去のものになりつつあった。私は1955年に店を売って56年3月、転

業を考えるのと母と会うため船で訪日した。日本で将来性のあるポリ袋に着目、

東京の機械メーカーを見学、ブラジルでやっていけるものかを考えた。

 帰国後、原料となる粗製ガソリンの入手が可能であることが分かった。共同出

資の希望者があったが、独力で起業を考え、57年4月に会社登記、日本から機

械を輸入して12月16日に操業した。ところが機械の好不調、操作の上手、下

手、製品の良悪が左右して不良品の山に苦しむ。日本やブラジルの技術者が来て

もうまく行かなかった。機械を抱えて泣きあかした。ガムシャラな暗中模索が続

いた。この道に経験のない自分が突然化学工業に飛びこんだことを後悔し、もう

工場を閉鎖しよう、機械を売り払おうと何度思ったことか。一度などは売却話が

決まる寸前までいった。創業の苦しみを嫌というほど味わった。

 十年目ごろからブラジル政府の目ざした国内産業育成の近代化政策が著しい成

果をあげ出し、急速な高度成長期に入った。時流に押し上げられ私の工場も受注

が急増し、一台の機械ではさばき切れなくなって、ドイツ、アメリカ製の最新式

高速機などを入れ、生産能力は月産百六十トンになった。このポリエチレン工場

を四女エルザの婿に託すようになるのである。これがケチのつきはじめとなるが

後日談は続編の本書にある通り。

 友人は私が今日あるのは妻綾子のおかげと言う。気の勝った女であり、私があ

まり辛抱の生活を強いたため、しっくりいかない面もあった。妻は俳句の佐藤念

腹に師事して、その心を詠んでいた。この綾子と76年に訪日した。滞在中に体

調不良を訴えることがあったが、強靭な女だったので、ブラジルへ帰って入院し

た。それから四ヶ月後の5月30日になってがんだと分かった。八方手を尽くし

たが7月6日、六十歳で永眠した。

 自分が強者の岸に泳ぎ着き”黄金のイス”の指定席につくための切符を手に入

れることばかり念頭において、妻に誠を尽くしてきただろうか、と思い悩む。

 綾子が燃えつきる寸前まで、ただひたむきに美しいもの、真なるものを創りあ

げようとした執念が、私にいろいろ教えてくれた。

妻綾子病床での句

蔓サンジョン六十の息切れんとす

たまわりし冬椿見納めとせん

恵まれし我生涯や冬さうび



カンピーナス市民賞
(1998年3月6日受賞)
著書「雑草の如く生きて」 著書「続・雑草の如く生きて」

後藤 留吉(Tomekiti Goto)

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