E hora de partir(出発のとき)


先日、ブラジルから電話があった。それは、私の大好きな友人からだった。久しぶりに聞いた彼女の声でわたしは元気になった。彼女はいつも私がおちこんでいるときや、淋しいときに限って電話をくれる。本当に不思議なタイミングだ。そして、彼女の声から今は彼女と一緒に過ごした楽しい日々にサウダージの気持ちでいっぱいだ。いつも、あの頃に戻りたいと思う気持ちが心のどこかにある。それを見透かしているかのように彼女は決まって私にこういう。「when you start new life, you need patient!」

そう、私はいまエクアドルにいるのだ。今年の6月末に日本に戻り、今は来年から始まる仕事のために、エクアドルの首都キトに到着したばかりだ。私はまた新しい場所で生活をはじめようとしているところなのだ。去年の9月にロンドンに着いたときと同じだ。いろいろな気持ちが混ざっていている。しかし、ロンドンの時とは何か違う。今回は学生ではなく、仕事できているからだろうか?それとも、いつも行っていたヨーロッパではなく、はじめてきた南米大陸だからだろうか?年のせいだろうか?いろいろな理由が考えられる。

とにかく、ロンドンのときとは違うということがはっきりわかる。私は今まで何かを新しくはじめるということに何の抵抗がなかった。逆に、いつもわくわくする気持ちの方で胸がいっぱいだった。しかし、今回はなんだかいつもとは違う。というのは私はロンドンであった友人たちが恋しくて恋しくてたまらないのだ。日本にいてもそうだった。そして、ここエクアドルにいてもこの気持ちは続いている。もう6ヶ月もたつというのに、私の心はロンドンに置き去りにされているかのように、彼らが恋しい。かといって、ロンドンに戻ったところでもう誰もいないのに。あの頃にサウダージノ気持ちでいっぱいでどうすることもできない。日本からロンドンへ旅立ったときはこんなに誰かが恋しくてたまらないという気持ちはなかった。もし可能ならば、ロンドンでの日々がもう一度戻って欲しいと思っている。そして、それが永遠に続いてくれればと…。

しかし、そうとばかりはいっていられない。なぜならば時は絶えず流れているわけで、戻ることなどは絶対にできないからだ。まして、それが永遠に続くなどはありえないからだ。そうだとはわかっていてもやはり、このサウダージの思いはけせるものでもないし、またいつまでも消えないとだろう。なぜならば、私達はまた新しく生活をはじめていかなければならないからだ。ときには立ち止まって考えるのもいいけど、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。先に進まなければならないのが私達の人生だからだ。

そんな彼女もつい最近ブラジルに戻ったばかりだ。彼女からのメールで彼女も不安なことはたくさんあるといっていた。しかし、先に進まなければならないと。そして、お互い離れた場所にいても、心がひとつだあれば問題ないと私にいってくれた。そうだとわかっていてもやはり、私は彼女が一番恋しくてたまらない。

私達は今、別々の新しい道を歩き出そうとしている。しかし、その道はいつかひとつになるだろうと私は信じている。つまり、また彼女と生活できるだろうと。何かをはじめるときは不安や淋しさはつきものだ。しかし、それを乗り越えたときにきっとまたすばらしい宝物を見つけることできるだろう。ある人がこういっていた「寒さにふるえた者ほど太陽をあたたかく感じる。人生の悩みをくぐった者ほど人生の尊さを知る」と。

人生はいつも楽しいことばかりではない、しかし辛いことや悲しいことを乗り越えてこそ人生というのはまた一段と味がでるものだろう。知らず知らずのうちに、私は楽な道ではなく、ちょっと険しそうで何かが起こりそうな道を選んでいる。しかしそのおかげで私は人よりちょっとだけ多くの宝物を得ているのだ。それは、お金では買えることができなく、また何物にも変えられないものだ。また人から与えられたものではなく、自分で見つけたものだ。ロンドンで見つけた宝物は私の人生の中でも特にすばらしいものだった。

私は今、ちょうど新しい道を歩き出したばかりだ。これから何が起こるかわからないし、不安もたくさんある。しかし、そのぶんまたすばらしい宝物を見つけ出すことができると信じている。前にも書いたが、私達は希望という奴に一杯食わされどうしだけれどそれでも、やはりこれに案内されて楽しい道を歩み、人生の終点にたどり着くのだと。

彼女も私もひとつの道が終わり、新しい道に突入したばかりだ。その道は今まで以上に険しいかもしれないし、上り坂やでこぼこした道かもしれない。しかし、いつかは私達の歩いている道がまたひとつになるということを信じて、この新しい道をしっかり歩いて行こうと考えている今日この頃です。