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名前 根本 文子
住所 サンパウロ州 スザーノ市
生年月日 1925年3月2日

「日本語教育」

 南米への第一歩から書きます。1957年(昭和32年)家族構成、家長40才、

私32才、長男10才、長女8才、次男6才、ボリビア移民として、神戸港から

西回りボスベン号貨物船客船で9月15日、日本を後にしました。

 先々のことは考えず新天地へと心を膨らませ沖縄へ寄港。移民者を乗せ

香港、シンガポール、アフリカケープタウンと港々で荷を降ろし、そのた

め一週間位停留しその間、上陸見物したり買い物をして手持ちのドルは減

る一方でした。

 二ヶ月の航海でサントス港上陸。荷を降ろし、すぐ汽車へ乗り換えブラ

ジルを横断しつつボリビアへと向かう道中、駅で日本人の人達が弁当を持

って待ち構えており各自手にしましたが、それはお粗末なものでおにぎり

やパンなどは青黴の生えたものでした。それでも代金はしっかり払わされ

ました。国境のコロンバで汽車を止め、草むらで野宿。食事をしたり、泥

水の沼で身体を洗ったりしました。とにかく何日も汗にまみれ汽車の中で

は皆死んだように熟睡していました。

 ボリビアサンタクルースに到着したものの荷物は別便でまだ到着してい

なかったので収容所で待つことになりました。収容所と言っても土壁で、

一室ずつ仕切りはありますが寝床は土間に草を敷いてその上に毛布を掛け

て寝るというあり様でした。入浴私設もなくただ塩水の井戸があるだけで

した。それでも食べることだけはしなければならず、男達は肉などを買っ

てきて飯盒でご飯、洗面器でゴッチャ煮のおかずを作って何とかしのぎま

した。ぼつぼつ不安と共に精神が曇り始めました。

 国際協力事業団が各自の土地を分け敷地に住む場所だけ伐採してくれて

いました。移住地には第一次移住者と第二次移住者がすでに入植していま

した。私達第三次移住者は28家族すべて夫婦子供連れでほとんどの子供が

私の子供達と同じ年頃でした。新婚一組、満州引揚げ二組、各自がそれぞ

れの土地に住み始めるまでが一苦労でした。それこそ歌にあるように子供

達は泥水に腰まで浸かり道なき道の密林を人間も馬も何日もかけて荷物を

運びました。椰子の葉で家を建て終わってやっと少し落ち着いた生活が始

まりました。

 私達は大きな木の根の横たわる川の側に家を建てました。大雨で家が浸

水しその木の根の上でご飯を炊いたこと、三人の子供が木の根の上で飛び

回って遊ぶのを見た主人が「子供を猿にするために連れてきたのか」と涙

ながらにつぶやいたことなどは、いつまでも忘れることは出来ません。

 皆少しずつ落ち着き始めた頃、私達28家族はよく集会を持ち、今後のこ

となどを話し合いました。その中でも一番重要な話題は子供達にスペイン

語を教えるべきなのか日本語を教えるべきなのかということでした。私達

夫婦は日本語を教えるべきだという意見でしたので、すでに第二次入植地

にあった日本語学校に子供達を通わせました。学校までの道程は子供達に

は険しいものでしたが、それでも豪雨の時などは馬に乗せるなどして毎日

弁当を持たせ通わせました。本当に苦労続きの入植地生活でした。

 子供達が小学中学課程を終わらせる頃、入植地に見切りを付け、サンタ

クルース市に出て商売を始めました。子供達も現地校へ通わせました。そ

れからボリビアには10年いましたが、子供達の将来のことを考え、1967年

にはブラジルに転住。すでに長男は三年前にサンパウロに住んではいまし

たが、また零からの出発でした。1969年には主人が他界しそれからずっと

苦労の連続でした。

 それから40年の歳月が流れ現在私は73才、長男49才、長女47才、次男45

才、皆それぞれ家庭を持ち独り立ちしております。御陰様で孫も六人おり

ます。今思うことはあの時ボリビアで苦労しながらも、子供達に日本語を

教えておいて良かったということです。三人とも日本語にもポルトガル語

にも全く不自由しません。私自身も1978年から83年までサンパウロで日本

語教師をしておりました。退職をした今は子供達の仕送りで悠々自適な一

人暮らしでカラオケ、踊り、俳句にと残された人生を健康で楽しく過ごし

ております。

根本 文子(Fumiko Nmoto)

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