Os namorados(恋人たち)


jou jou, jou jou
que e meu balangandas?
aqui estou eu, ai estas tu, minha jou jou
meu balangandas
nos dois, depois, o sol do amor, que manhas!
de bracos dados, dois namorados
ja sei…
jou jou
balangandas

seja em paris
ou nos brasis
mesos distantes
somos constantes
tudo nos une
que coisa rara
no amor, nada nos separa!
Jou Jou Balangandas

ジュ・ジュ・ジュ・ジュ
バランガンダン
私の晴れの日の装身具はどれ?
僕はここに あなたはそこにいる 可愛い ジュ・ジュ
二人で あとでね 愛の太陽 なんて朝でしょう!
腕をとりあって 恋人同士
わかったは……
ジュ・ジュ
バランガンダン

パリでも
ここ ブラジルでも
離れていたって 関係ない
二人はいつも一緒
すべてが僕らを一つにしてくれる
なんて珍しいことだろう
愛する二人は いつも一緒

とボサノバの神様(勝手に私が神様にしてしまっているが…)ジョアン・ジルベルトは歌っている。

“パリでも、ここブラジルでも離れていたって関係ない二人はいつも一緒…愛する二人はいつも一緒”なんてそう思えれば遠距離恋愛もどれだけ楽だろうかとおもう今日この頃である。恋人同士であればいつでも一緒にいたいはずだし、悲しいときや辛いときにそばにいて励ますこともできる。しかし、遠距離となるとこうはいかない。いつも不安にかられ、時がたつにつれてその度合いも増し、だから些細なことでも相手を信じることができなくなるといった状況に陥りやすのではと思う。

誰かの言葉で「愛する勇気のあるものは苦しむ勇気も持たなければならない」といっていた。まさに、遠距離恋愛をしている人にはぴったりの言葉だろう。愛するがゆえにというか、愛するからこそというのかそれはわからないが。前にも書いたかもしれないロンドンに滞在しているブラジル人のカップルの友人が私にはいるが、女性のほうがブラジルに戻る決心をとうとうしたらしい。

というのは、彼女はブラジルで大学の法学部をでていて、ブラジル・ポルトガル語はもちろんのことフランス語もほぼ完璧にはなすことができる。スペイン語、イタリア語、そして英語も話せるのだ。つまり母国語を入れると5国語に堪能な上、ブラジルやフランスではホテルで働いていたという経験の持ち主だ。そして、相手の彼の方もフランス語に英語が話せるのだ。なぜ彼らがロンドンにいるかというと、男のほうがブラジルではスポーツジャーナリストで最近フリーで活躍するようになったのだ。それで、今は修行というかいろいろな国に行き、そこで記事を書いてブラジルに送って生活をしているのだ。

彼等はちょうど彼女がフランスのホテルで働いていたとき知り合った。そして、彼もワールドカップというサッカーのいちだいイベントのためにパリにいたのだ。運命というかなんというか…そもそも、彼も彼女もブラジルのリオの出身だった。生粋のカリオカッ子なのだ。それから、なんとリオにひとつしかないフレンチ・インターナショナル・スクールの出身で、おまけに共通の友達もいたのだ。

しかし、お互いにパリで出会うまでは知らなかった。そして、パリで二人は出会ったのだ。ちょうど、彼がロンドンへ英語を勉強するということで彼女はパリのホテルをやめ、彼と一緒にロンドンへ渡ってきたのだ。

彼はロンドンでも順調に仕事はあった。というのは彼の記事はブラジルに送られていたからだ。少しでも長くと彼女はロンドンで仕事をはじめた。しかし、彼女が得た仕事というのはベビーシッターや中華料理でのウエイトレスとうい彼女の能力には見合わない仕事だった。彼女は彼の傍にいるためにロンドンにのこっていた。しかしとうとう、彼女は決心をしたのだ。そう、ブラジルに帰るという。

帰るとは決めたものの、やはりたった一つの気がかりは彼のことだった。前にもいったかもしれないが、私が見た限り、ブラジル人の間に遠距離恋愛という観念はないようなきがする。もちろん中にはそれをやり遂げれる人もいるだろうが、私の言いたいのはそれをやり遂げようとする努力をする人が少ないということだ。彼女と話をしていたときのことだった、「私がブラジルに戻るということは彼との別れを意味するようなものだ」といっていたのを聞いて私はなんだか情熱的だがちょっと寂しい考えだなーと思ったことがあった。まあ、人それぞれだろうと思うが。

一番の遠距離が嫌な原因は相手が自分以外の人、または自分が知らない人と接し、そしてあげくのはてに心変わりををしてしまうのではないかという不安にかられることだろうと思う。日本人の友人で奥さんを日本においてイギリスに来ていた人をしっているが、決まって周りははこういった。「絶対、奥さんは浮気しているよ!」と。

私は正直言って恋愛を(遠距離を)したことがないからなんとも言えないが、相手を信じるということができるか、できないかに遠距離はかかっていると思う。つまり、会えない時間が増えると、些細なことでも相手を疑ってしまうだろう。そうすると、ちょっとしたことでも、なんだか大袈裟なことになってきてしまうような気がする。

「星の王子さま」をかいたサン・テグジュペリはこういっている。“愛は苦悩を生むものではない。苦悩を引き起こすのは愛とは正反対の感情である所有欲だ”と。いつも一緒にいて何をするにも一緒でなければ恋人ではないというのは間違いなのだ。恋人は物ではないからだ。

よくつきあったりすると、相手を自分の物と勘違いする人が多いが、それがそもそもの間違いの原因だと私も思う。人を所有することは不可能だということに気づいた者だけが、本当の恋愛を育んでいけるのだと。愛するという気持ちがあれば、相手を信じることも可能のような気がすると思っている私ははまだまだ甘い考えなのだろうか?

お互いに自分のスペースを持って、なおかつ分かち合える部分があるというのが私の理想なのだが。自分の居場所はいつももっていなければいけないような気がする。つまり、愛する相手がいようがいまいが、自分の時間というのをつくっておかなければいけないということだ。相手に振り回されて、自分の居場所をなくしてしまったりしてはいい関係は望めないと思う。愛するということは、相手を信じることなのだと。言い換えてみれば、信じられない相手をいかにして愛することができるだろう?信じられない相手とどうして一緒にいたと思うだろう?

本当の恋人同士というのはお互いに信頼しあい、なおかつ尊敬しあえて、そして共通の時間を一緒に持てる人同士のことをいうのではないだろうか?愛するということで相手を疑うようになるようでは、やはり淋しすぎるし、サン・テグジュペリのいうように愛が苦悩を生むものになってしまってはやはり、やるせないような気がする。と言葉で表すのは簡単だがやはり、1度恋をしてしまうとこうはいかないのが世の常!しかし、かの有名なシェークスピアも「愛とは目ではなく心で見るものだと、だから恋のキューピッドはいつも盲目なのさ!」といっているように、ようは愛とは心で感じるものなのだということを恋人たちにおぼえておいてほしいと思う今日この頃だ。