私の声 私の人生 この歌を聴くと体が自然にざわめく。意識をして初めてこの言葉とであったのは大学の1年のときだったと思う。その当時私はスペイン語学科に在籍をしていて、どうせ似ている言語だしポルトガル語でもやってみようかなという軽い気持ちで授業とってはみたがこれが(先生には失礼だが)もうつまらないのなんのと… ただ、単語や動詞の活用、ちょっとした慣用句など無意味に頭につめこむだけの授業に嫌気がさし何回かいって結局やめたことのがまずはじめの出会いだった。 それから、つぎにこの言葉との再会はbossa novaを通じてだった。なんとも耳ごごちのよい軽やかなリズムのbossa nova身も心も踊った。Joao GilbertoやAntonio Carlos Jobin, そしてGal Costaらの声が私の中にはいってきた。それは、まるで子供の頃に日本語を抵抗なく受け入れるくらい自然なことだった。 そして、Paulo Coelho(作家で「アルケミスト」や「星の巡礼」の著者でブラジル人)と私の中でしだいにスペイン語を占める割合からポルトガル語を占める割合のほうが大きくなってきた。もちろん、スペイン語にはスペイン語のよさがある。 これは、耳で聞いたときの話だ。つまり、スペイン語にはスペイン語の音、英語には英語の、そしてポルトガル語にはポルトガル語の音がある。日本語だってそうだ。とくに、ポルトガルにもいったことがあるが同じ言語でもブラジルのそれとポルトガル語のそれとでは音がとても異なる。 ポルトガルにファドがあるように、ブラジルにはこのbossa novaがある。もちろんそれ以外にもたくさんの音がある。このbossa novaの源があの黒人奴隷がブラジルに着たときにいっしょにきたサンバの音とアメリカの黒人音楽ジャズが混ざったものだときいたとき、なんとなく驚きを隠せなかった。あんな情熱的な音からどうしてこんな軽やかな音が創れるのだろうという驚きだった。 Desafinadoという曲ではじめてbossa novaという言葉がでてきた。Desafinado = inharmoniousつまり音痴というか調和のとれていないという意味だ。音痴の恋人が音痴といわれたことに対してこれが自然に体から出てくる音なのだから、そんな風に私のことを音痴といわないでというような内容で。つまり、音楽につかりすぎて本当の基本を忘れてしまっている恋人に対して音痴の胸の中でも静かに鼓動する音があるんだよっと言うことをいっているんだと私は解釈しました。 Gal CostaのMinha voz minha vidaでも歌われているように声は私たちの体が考えていることを伝えるための大切なものです。胸にしまっているどんな秘密も、愛を語るときも、自分の気持ちを誰かに伝えるときも、歌を歌うときも、幸せのあまり叫びたいときも、悲しみのあまり大声で泣きたいときも、あたまにきて怒りたいときも、どんなときも私たちは声を出します。そして、声は歌となり人の心に響いて。 わたしはこのポルトガル語のききごこちがとってもすきで。ポルトガル語の勉強なんかしてみたりして。大学時代はまったくする気にはなれなかったのに、いまは逆で。つまり私が何を言いたいかというと、私たちはいろいろなことに出会って興味を持ちそして成長していっているわけであって、私が今まで出会った音や人や街などいろいろなものが私をここまで成長させてくれたんだなと最近つくずく思うようになって、それで、私は私が出会った人々のよさをたくさんの人に伝えたくてこれを書き始めようかななんて思ったのがきっかけでした。 とりあえず、25年いきてきてたくさんの人やものに出会ったけど、私の幸せを今あくせくと働きつづけているみなさんにぜひ分けてあげようとおもいます。音楽にはまりすぎて基本を忘れてしまった恋人のように、なにかのなかにいすぎて本当のことが見えなくなっているかもしれない人々にこの出会いの旅をプレゼントします。それでは、さっそく出会いの旅に出かけてみましょう!
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